ナルガのこども - 後編



あの時以来、私は樹海に行けなくなった。ナルガの亡骸のイメージとあの赤ん坊の鳴き声がどうしても思い出されてしまい、樹海の前でいつも足が固まってしまうのだ。また、ナルガの武器や防具を身につけているハンターに出会う度、私は暗い気持ちになった。あの雌ナルガはどうしただろうか。もうどこかのハンター達に狩られてしまっただろうか。



それから4年の月日が過ぎた。


ある日のこと、親方が大怪我をして狩りから帰ってきた。出血と打ち身がひどく、止血の薬は間に合ったが、打ち身に当てる湿布用の薬が足りなかった。村の大ババに聞くと、樹海の薬草が一番よく効くという。私はあのときの記憶を振り払って、迷わず樹海に向かった。



人買いにさらわれ売られていた私を買って村に連れてきてくれたのが親方だった。親方は奥さんとは別離しており(理由は不明)、男手ひとつで育てていた娘さんを街に送り出してからというものハンターを続けながら一人で暮らしていたが、猫が苦手でアイルーが雇えなかったため、家の細々とした雑事にまで手が回らず困っていた。そんな折に私を見つけて家事等をまかせるつもりで引き取ったようだが、村人の中には私を買った親方に対してつまらない噂を立てるものもいた。親方は私が変な目でみられないように私に狩りを教え、離れの小屋をあてがってくれ、独立した生活ができるように補助してくれた。あいにく私にはハンターの才能が無かったため、ハチミツ採取くらいしか生計を立てるすべがなかったが、猫は好きだったのでアイルーを雇い、アイルーと一緒に食事を作って親方の小屋でそれを振る舞った。親方が狩りに出かけると、私は親方の家の掃除や洗濯をすませてから、自分のささやかな狩りに出かけた。そんな生活が私にできる親方への唯一の恩返しだった。



突進してくるファンゴから逃げつつ薬草を探していると、見覚えのある虹色の羽根が私の鼻先をかすめて落ちた。ヒプノックの羽根だった。ヒプノックは地面に降り立つと、あっさり私を見つけ、威嚇の声をあげてから私の方に飛びかかってきた。予想外の敵の追加にパニックになった私は、しつこく追ってくるヒプノックを交わしつつ別のエリアに逃げることだけを考えて走った。そして一瞬存在を忘れたファンゴから脇腹への激突を受け、私は蹴飛ばされた空き缶のように地面を転がった。私が目を廻しながら立ち上がろうとしていると、背後からファンゴの追撃を受けた。私は再び吹っ飛ばされ、もう自分の身体がどういう状態になっているのかわからないくらい混乱した。ヒプノックの鳴き声が響き、私の視界が白くかすんだ。ヒプノックの睡眠ブレスで、私は意識を失った。


気がつくと、私は獣の匂いに包まれていた。一瞬で全身に鳥肌が立った。私は自分のそばに何物かが居るのを感じていた。私はそれを刺激しないようそっと目だけを動かして周囲の様子を探った。私の視界の隅に、黒々とした長い毛の塊が映った。私の身体がびくっと反応した。私は震えながらそっと首を回して天を見上げた。そこには前足をきれいにそろえて座り、どこかじっと遠くを見つめているナルガの姿があった。体長は私の身体の三倍くらいだろうか。立ち上がって手を伸ばせば頭に届くくらいの大きさの、まだ幼生のナルガだった。下の方からファンゴの嘶きやヒプノックの声が聞こえ、私は自分がエリアの高台にいるのに気づいた。


……ナルガが私をここまで運んだ?


私はナルガの顔を見た。ナルガは私に気づいた様子だったが、じっとどこかを見つめたままの姿勢を保っており、こちらを見ようとしなかった。
「……ナルガ?」
私は思わず声を出して呼んでいた。すると、突然背中の方から黒い塊が私の肩に押しつけられ、するすると固い体毛が私の頬を流れていった。私ははっとしてそれをつかんだ。しかし適度な脂でしめった尻尾の毛は私の手のひらをすり抜けていった。私の視界は一瞬でゆらぎ、ゆがんだ。尻尾がなぜた頬の上を、あたたかいものが流れていった。
「おまえ……あのときの」
森の向こうで鳥たちが飛び立った。ハンター達が防具の音を鳴らしながらこちらへ近づいてきているようだった。ヒプノックの威嚇の声が響き、ファンゴが地面をひっかく音が聞こえた。高台の下側に気を取られていた私が振り向くと、既にナルガはいなかった。そしてナルガのいた場所の向こう側に、私は探していた薬草が生えているのを見つけた。


私が薬草を抱えて村に戻ると、親方が寝床で身体を起こし、大ババの手を借りて粥をすすっていた。
「親方! もういいの?」
「ああ、たいしたことねえよ」
そんなはずはないのだが、親方はそういう人だった。
私はすり鉢を持ってきて、親方の横に陣取ると、取ってきた薬草をすりこぎでつぶし始めた。
「なんだ、ずいぶん機嫌が良さそうじゃねえか」
親方が私の様子を見ながら言った。
「うん、あのね、さっき樹海で懐かしいヒトにあったの」
親方の顔が一瞬曇った。
「……誰だ?」
私はすりこぎを持つ手を止めて言った。
「あたしのこども」


親方は目を丸くした。