ナルガのこども - 前編


この村に売られてきて三年、モンスターを狩る才能が自分にないことに気づいた私は、各地でハチミツを採取しては売る毎日を送っていた。村人からは、ハチミツ屋さんと呼ばれている。キノコなども採取したが、あれは全部自分で食べてしまうので、売りには出さない。毒や麻痺効果のあるキノコも食べる。分量にさえ気をつければ、独特な身体感覚を喚起するための薬として使えるからだ。私は時々、静かな蒼い月の夜に無性に悲しくなることがあるのだが、そういうときにそれらのキノコのお世話になる。身体を巡る正常でない感覚は、私の感情の流れを引き裂いて方々へ散らし、薄めてくれる。



その日は樹海にやってきていた。いつものルートを廻りながらハチミツやキノコを集めていると、突然周囲の木々がざわめき、動物たちがこちらへ飛び出してきた。どこかでハンター達が大物を狩り始めたのかもしれない。飛び出してきた動物の中に混じっていたファンゴが、私に気づいて突進してきた。私はあわてて籠をつかむと、樹海の奥へ逃げ込んだ。
くねる木の根に囲まれた小さな通り穴を抜けると、巨木の枝葉が天井を覆っている薄暗い空間に出た。地面はどこからかしみ出た地下水によって全体がぬかるんでおり、あちこちに転がっている大きな石にはそれぞれ分厚い藻がへばりついている。天井からは枝葉のわずかな隙間から洩れる陽光がくっきりとした斜めの帯を作り、その間を縫うように透き通った薄紅色の羽根を持つ虫がゆっくりと飛んでいた。小さな生き物たちがひしめいているはずのその空間は、不思議な静寂を湛えていた。私はその神秘的な雰囲気に包まれながら、乱れた息を整えていった。


暗がりと静けさに身体が慣れた頃、私は凪いだ空気に違和感をもたらす小さな音を聴いた。音のした方へ耳を向けると、続けて、ヒィヒィヒィヒィという小さな生きものの鳴き声が聞こえてきた。私は興味をそそられて、声のする方へそっと歩いていった。その声は、空間の端にある巨大な根の影に作られた、巣の中から洩れていた。巣の中には、ヒトの大人の頭くらいの大きさのたまごがあった。そのたまごは既にひび割れており、小さく欠けた殻の隙間には、黒く濡れて波打つ何物かの体毛が動いていた。私が息を止めて見守っていると、たまごはゆっくり揺れはじめた。揺れた勢いで小さく転がったたまごは、パキリという音とともに亀裂を一気に拡げて割れ、黒い毛むくじゃらの何ものかを露わにさせた。
それはナルガクルガの赤ん坊だった。刃翼はまだほとんど形をなしておらず、しっぽは短く太かった。嘴はまだ瑞々しく、指で押したらへこみそうなほど柔らかそうだった。私は抱き上げたい衝動を抑えながら、ナルガの赤ん坊を見つめていた。すると、赤ん坊のまだ開いていなかった目が細く開き、のぞいた瞳がしばらく視線を彷徨わせると、やがてまっすぐこちらを向いた。キィキィキィキィと赤ん坊の泣き声が高まり、私の胸の鼓動も高まった。ナルガの赤ん坊は目を閉じ、ぶるっと身体を震わせた。寒いのだろうか。私が赤ん坊の身体に手を伸ばそうとしたその時、


ズダァン!


巨大な何かが地面に降り立った音が辺りの静寂を切り裂いた。
一気に周囲に立ちこめる濃厚な獣の臭気。見上げるほどの大きな黒い影。長く伸びた尻尾。流れるような曲線を描く刃翼のシルエット。
成体のナルガだった。
そして、間髪おかずナルガの影の向こうに現れたハンターたちの気配。ナルガの放つ威嚇の咆哮。


「いたぞ!」
「すげえ荒れようだ。卵でもかばってるんじゃないのか?」


考えるより先に私の手はナルガの赤ん坊へと伸びていた。そしてうまれたばかりの小さな柔らかいかたまりを胸におしつけるように抱くと、私は地上に張り出した巨木の根の奥に開いていた横穴に身体を滑り込ませた。穴の先はチャチャブーの巣だった。この時間帯、チャチャブー達は寝ているはずだが、先ほどのナルガの咆哮といい、泣き続けるナルガの赤ん坊の鳴き声といい、起きてしまう可能性はあった。私は赤ん坊の泣き声だけでも止めたくて、ナルガのこどもをぎゅっと胸に押しつけた。私の身体の温もりが伝わるように、私の鼓動が聞こえるように。しゃがみ込んだまま、しばらくそうして抱いていると、ナルガの赤ん坊は安心したのか、鳴くのをやめて眠りについたようだった。静けさを取り戻した暗がりの中で、私は息を詰めて耳をすませた。ハンター達がすぐ向こうでナルガと戦っている音が聞こえた。ガンランスの発砲音、それに続くナルガのひるみ声。あの大きなナルガはこの子の親なのだろうか。もしそうだとしたら、あのナルガには死んでほしくない。私は赤ん坊の体温を感じながら、外で戦っているナルガがハンター達からうまく逃れられるよう祈った。さほど離れていない場所でチャチャブーたちの気配が時々動いたが、ナルガの赤ん坊の匂いが抑制力にでもなっているのか、私に近づいてくる様子はなかった。


私の祈りとは裏腹に、向こうのナルガは相当苦戦している様子だった。ハンマーの打ち下ろされる振動や、大剣が風を切る音とともに、ナルガの叫声が響いた。あたたかい赤ん坊の鼓動は私の胸にも伝わってくる。私は祈った。死なないで、お願い死なないで……


爆弾が連鎖爆発する音がした。そして向こう側が嘘のように静かになった。ナルガが別のエリアに逃げたのだろうか。ハンター達が声を掛け合い、砥石を使い、やがて防具を打ち鳴らして去っていく音が聞こえた。私は頃合いを見計らって、チャチャブーの巣から抜け出した。濃厚な血の匂いと獣の脂の匂いが私たちを包んだ。私は全身に鳥肌が立つのを感じた。


大きな黒い影がそこにあった。それはナルガの死体だった。切り刻まれ、頭を打ち砕かれ、爪を割られ、目を切られ、尻尾を切断され、血と脂を周囲の地面にしみこませているナルガの亡骸がそこにあった。私はその光景を見て、金縛りにあったように動けなくなった。首筋から頭が凍り付いたように緊張し、がたがたと身体が震え出すのを止められなかった。私の足下には、赤ん坊のいた、木の枝で作られた巣があった。巣は先ほどの形を完全に保っていた。取り戻された静寂の中で、私は赤ん坊の体温だけを感じていた。そして私は自分の身体が震えるのを止めようと必死になった。自分の感情をこの子に伝えてはいけないと思ったからだ。しかし、震えを止めようと思えば思うほど、身体は言うことを聞かずに暴れ出した。赤ん坊がとうとう目を覚まし、小さな声で鳴き始めた。私は目を閉じて赤ん坊の鼓動に必死に耳を澄ませた。この子を悲しませてはいけない、この子を怖がらせてはいけない……


私の身体が平成を取り戻したとき、何物かの気配が私の背後にあるのを感じた。そしてそれは私が振り向くより速く宙を飛んで、音もなく私の前に降り立った。それは巨大なナルガだった。私は何故かこのナルガが雌だとわかった。雌ナルガは尻尾で傍らのナルガの亡骸をなでながら、私の方に顔を向けると、まっすぐに見つめてきた。私の身体は硬直した。私は雌ナルガから目をそらすことができなかった。雌ナルガは私の目の中に何かを探しているようだった。私の視界はナルガの瞳でいっぱいになり、私はナルガの目に食べられてしまったような心地になった。雌ナルガはそんな風に私を見た後、すこし視線をずらして私の胸の辺りを見た。雌ナルガは赤ん坊を見ていた。そして、ふたたび私の目を見つめてきた。
私は再び震えだした身体を必死に止めようとしながら、両手に抱えた小さな生き物をゆっくりと雌ナルガの方へ差し出した。腕の震えが止められなくて、今にも赤ん坊が手の間からずり落ちそうだった。私はわななく膝を必死に硬くして、待った。雌ナルガはすっと顔をこちらに近づけ、私の鼻先にその大きな嘴を押しつけながら、口を開け舌を伸ばしてきた。濃厚な獣の匂いにむせそうになりながら、私はナルガの舌の上に赤ん坊を抱えた手のひらを載せた。あたたかく濡れたナルガの舌が私の手のひらを押し上げると、赤ん坊はナルガの口の中に転がり、私の手のひらはナルガの口から解放された。その勢いで、私の身体は、膝から地面に崩れ落ちた。私は肩で息をした。額から汗がほおを伝って流れ、顎から地面に落ちた。死んだナルガの血と脂が、私の足下にまで流れてきていた。ゆっくりと拡がってゆくナルガの脂を見つめていると、ひゅっと風を切る音とともに、黒く長い何かが私の身体の方へ飛んできた。私はその影に死を思った。しかし、その影は私の頬の横で静止し、うつむいていた私の顔を押し上げるように動いた。私の頬を流れていったのは雌ナルガの尻尾だった。雌ナルガは赤ん坊を口にいれたまま、私を見つめながら尻尾を引いた。血と脂に濡れた針の様な毛先が私の頬を流れていった。その時、ぴっと糸を張ったような鋭い感覚があり、私は脂に濡れた頬に一筋の冷たい直線が刻まれるのを感じた。私の瞳は涙であふれ、視界がゆらいだ。


気がつくと、もう雌ナルガはいなかった。


村にたどり着くと、雑貨屋のおばちゃんに声を掛けられた。
「あんた、頬から血が出てるよ」
部屋に戻って鏡を見ると、確かに脂で黒く染まった頬から血が流れていた。私は傷を刺激しないように顔を洗うと、薬草の擂り汁を頬にすり込み、ベッドに倒れ込んだ。台所からアイルーが心配そうに顔を出したが、私の様子を見ると、何も言わずに奥へと引っ込んだ。私は枕に顔を埋めて泣いた。なぜだか涙が止まらなかった。プーギーが心配そうに、ベッドの下で鳴いていた。


(つづく)


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