なんとなくわかってきた気がするので書いてみる。
この映画は映画としてみるからイタくて寒いのであって、演劇としてみればよいのではないか。そもそも内田栄一はもともと演劇畑の人なのだ。
私は松尾スズキが原作を書いた漫画をいくつか読んで、「この変な感じは演劇では通じるかもしれないけど、漫画じゃ通用しないよな」というようなことを感じたことがある。演劇での台詞や話の展開、虚構の上で語られるハナシの感じは、漫画や映画ではおそらくそのままでは通用しない。演劇には演劇の、映画には映画の、漫画には漫画の「作法」のようなものがあると思う。合わない作法を組み合わせた感じが「きらい・じゃないよ2」のあのなんともいえない取り付くシマの無い感じなのではないか。
もちろん、内田栄一はあえてそのへんをねらったのかもしれない。あるいは何も考えていないのかもしれない。しかし、こなごなに砕けたガラスの破片の床、ガラスの拳銃、水子、水車、ぼこぼこにされる戸川純等シーンをバラバラに切り取って回想してみれば、取り付くシマの無いように思えた映画の中で、それらは明らかに意図的なメタファーとして使われているように思えてくる。崖っぷちの人生。空回りの武器。声も上げられずに生まれることなく殺されていくこども。滴り落ちつづける水と喘ぎ声。うまれることのできない怒りに憤る風車の少女。100年まち。まちは「街」なのか、「待ち」なのか。
混乱してきた。